感想集:CD 2016.4

『ライヴ・ワイアー』 “JEFF BECK WITH THE JAN HAMMER GROUP LIVE” ジェフ・ベック JEFF BECK (Sony Music MHCP 590 2005.2.23 original LP released in 1977 )

私の若い頃はフュージョン流行りだったが、ジャズもフュージョンもその頃聴く気になれず、ロックからフュージョンへ接近したようなジェフ・ベックも聴く気にならなかったのだけど、この 20年で代表的なアルバムは聴いているのだから驚きだ。『ワイアード』も聴いた。しょっちゅう聴きたいとは思わないが、でもときには『ギター殺人者の凱旋』こと “BLOW BY BLOW” や。『ワイアード』も聴く気になる。そしてこのライヴ盤、『ワイアード』の次に出たから『ライヴ・ワイアー』って、まあ気の利いた邦題だと思うが、原題は単にヤン・ハマーのグループとのライブ……ですか。部分部分では、いい音(というのは魅かれる音色、フレーズ)だと感じるところがあるけど、全体としては一度聴けばいいですってところかな。


『転転々』ヒカシュー(MAKIGAMI RECORDS MKR-006 2009.12.20)

現メンバーになってからの初めての CD作品である、2006年頃のアルバム『転々』を聴いていれば、タイトルから判断して、このアルバム『転転々』の内容も想像がつくだろう。『転々』同様フリーの、なんていうか、専門用語?ではなんと呼ぶか知らないが、普通の歌物でなくてインプロヴィゼーション的な音が主体のアルバムである。ただ『転々』と違うところは、まず1曲目に「ニコセロン」という題の歌が入っていて、最後にも歌詞が違う同じ歌が置かれている。この歌があることで、アルバムに入りやすい。リズム感の悪い私の感想なので、あてにならないところがあるけど、歌の拍子が微妙に後にずれてる感じで聴きやすいような聴きにくいような妙な印象で、とらえどころのない歌詞、曲調はある意味アグレッシヴでもある。この曲、そして 3曲目の「外ではほらきみが降ってる」からアルバム全体がとてもへヴィーな印象を受ける。魅力的なへヴィーさである。そして現メンバーで、『転々』から始まって、ミニ・アルバム(シングル?)『入念』、続いてのアルバム『生きること』の完成を経ての、このアルバムを聴くと、フリーさとともにあるまとまり、一本筋の通った感じがある。淡々としてアグレッシヴでへヴィで柔らかい。色彩と陰影を描いて迫り来る。


『ニコセロン part3』ヒカシュー(MAKIGAMI RECORDS MKR-007)

ミニ・アルバム(シングル?)『鯉とガスパチョ』、アルバム『転転々』、そしてまたミニ・アルバム(シングル?)『ニコセロン part3』が、なんとなく知らないうちに出てましたという感じで出ている。前のアルバム『転転々』を聴いていれば分かるけど「ニコセロン」というのは、その最初と終わりに置かれている歌で、この4曲入りのCDでさらにそのヴァリエーションが 1曲目と 4曲目に展開される。その「ニコセロン」もいいのだが、このCDでは、 2曲目「あしたにかけた」、3曲目「青すぎるジャージ」が巻上公一と三田超人のそれぞれのヴォーカルでヒカシューの魅力爆発という感じのナイスなナンバーで、最近のミニ・アルバム(シングル?)にはそれぞれに捨てがたい曲があるのだが、この2曲も決してはずせない痛快さである。


“Hello World” 『ハローワールド』SCANDAL スキャンダル(ESCL4324-5 2015.12.3)

2014年暮れの新譜、サウンドは1曲目から快調に飛ばす迷いのなさで文句ないが、歌詞がね、やっぱりだんだんと年齢が上になってくることとかバンドの知名度が上がってすっかり押しも押されもしない存在になっていることとかと関係して歌詞が大向こうに向けた、元気だして行くぞ、みたいな大味なものになってきてるかなあとか思いながら、そういう中にSCANDAL定番のリリカルな “Departure” という曲があって、そして中盤の「夜明けの流星群」「お願いナビゲーション」あたりの盛り上がりの快感、後半は Haruna以外のヴォーカル曲がそれぞれにパーソナルな面白さを伝えて……っていうアルバム全体に対する印象は前作とほぼ同じだ。ラストの小室哲哉フィーチャリングというのは、私には有難味が分からない。


『メイン・ストリートのならず者』“EXILE ON MAIN ST” ローリング・ストーンズ ROLLING STONES(ユニバーサルミュージック UICY20079 2010.12.22 original LP released in 1972 )

私がストーンズを聴き始めたのは、ラジオで新譜として聞くシングル曲が、この後の「悲しみのアンジー」から、新作アルバムをちゃんと聴くというは『エモーショナル・レスキュー』からで、それからいろいろと聴いて行ったけど、この『メイン・ストリートのならず者』をやっと聴いた。LPは2枚組だけど、このCDでは1枚に収まる長さだ。『スティッキー・フィンガーズ』も少し前に聴いた。『ベガーズ・バンケット』は聴くの早かったのだよ、最初の日本盤CDで聴いたから。70年代のスタジオ盤では、それでもあとラジオで新譜として初めて聞いた「悲しみのアンジー」を含む『山羊の頭のスープ』を残すだけになった。このアルバムに収録されているヒット曲「ダイスを転がせ」は曲自体は当時印象に残らなかったけど、曲名だけはリアルタイムで知っていた。ちょうどラジオのいろいろな音楽番組を聴き始めた12歳のときなのだが、私が思うにはその頃日本テレビ系で日曜夜7時に30分の音楽番組があって、それが邦楽の若者向けポップ歌謡と洋楽情報を両方扱うという番組で、歌手としてはデビュー直後の新御三家や沢田研二、三善英史、和田アキ子といったところがよく出演していた。洋楽の方も今この曲がヒットしているとか紹介していたと思う(当時のジョン・レノンみたいな出で立ちで今野雄二が登場して喋ってたんだよ)。もしかしたら出演者を含めた即席の日本人バンドで「ダイスを転がせ」をコピー演奏していたことなんかもあったのかもなあと漠然と思っている。。『ベガーズ・バンケット』の原石から『スティッキー・フィンガーズ』の磨き上げたダイヤになったストーンズのサウンドがさらに展開し、彼らがビートルズとはまた異なったアプローチでの自在さを会得していたと言えるアルバムだ。

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感想集:活字本 2016.2

自分のページで感想文を発表してきていましたが、自分のページもやめたので感想文も今までよりコンパクトにしたいと思います。一つの記事に何冊かの本の感想をまとめます。

2016.2

『吉永小百合 街ものがたり』吉永小百合(講談社、講談社+α文庫 2003.12.20 原著書 1999.4 刊行)

2004年の秋に読んで感想を書こうと思って、今までずっと積んでおいた本、ラジオ番組をもとにした本らしい。文庫版の方は巻頭 8ページにわたってカラー写真有り。今まで世界各地へ旅したときの思い出を綴った内容である。アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、オセアニアと旅行は全世界に及ぶ。と全体において吉永小百合調の思慮の感じられる、おだやかさのある本。

印象に残っているのは、海外旅行ではないけど「はじめに」で書かれている体験、15歳のときロケ地に向かうために一人で夜汽車に乗ったら、お金をすられて宿舎でジュースも飲めなかったとか、大女優にもそういうときがあったのだなあ。それから中国旅行で井上靖や大江健三郎と一緒に行ったという話を読んで、派手な芸能界だが、芸能の仕事でがんばっていい仕事を続けたら、こういう他の分野での一流の人たちと交流する機会があるから、どんどん知見も広がり深まってゆく、自ら人間的に向上しようと思ったらそのチャンスがある世界だし、逆に堕落しようと思ったらいくらでも堕落出来る世界であるなあと改めて感じた。今確認したら、その旅は中国というより井上靖の小説の舞台にもなった西域への旅で、日中文化交流協会の旅、1984年というから映画『玄海つれづれ節』の頃だから、結構後のこと(人気スター時代の後、押しも押されもしない女優時代になってから)なんだね。中国へはそれより前に 1977年に中国人民対外友好協会の招きで木下恵介、仲代達矢らと映画人の代表として訪れている。

はじめての海外旅行は17歳になってすぐ、映画人代表の団体でミラノの国際映画見本市へ行ったときだそうで、その頃はまだやっと日本人が自由に海外渡航できるようになった頃だ。これからもそばに置いて、折にふれて手に取って、世界のいろいろな話を楽しみたい本だ。


『ムッシュ!』かまやつひろし(文藝春秋、文春文庫 2009.11.10 原著書 2002 刊行)

舞台に出る前に内田裕也がムッシュ、あなたロックですか、フォークですか、どっちかはっきりしてくださいと問いただしたので、舞台に出て「フォークのかまやつです」と言ったら、裕也がソデで笑い崩れていたというエピソードが書かれている。私が、かまやつひろしを知ったのはこの頃、フォークとの接近時代だ。スパイダースというGSのグループは知っていたけど、マチャアキがいたグループという認識しかなかった。解散後、井上順と、かまやつひろしが所属しているレコード会社の 15分くらいの歌番組がちょうど日曜の午後にオンエアされていて、井上順が軽快な「昨日・今日・明日」を歌い、かまやつひろしが「独り者」というカントリー調でフォーク調の曲を歌った。1971年初夏の頃だ。それからしばらくしてラジオ番組の公開ライヴで軽妙なしゃべりで歌うのをときどき聞いているうちに「我が良き友よ」という曲が出て、ドラマは見てなかったが、鈴木ヒロミツが登場するラジオのスポットCMで、いい曲だなあと思ったら大ヒットした。1975年の春だ。「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」はムッシュがやっていた TBSの土曜の深夜の公開番組で聞いた。LPも買った。

ムッシュがロカビリー時代からの人だというのも、いつか知っていたが、赤木圭一郎が事故死したとき現場に一緒にいたというのは、この本で初めて知った。そういう時代から最近まで、日本のポップス・ロック史の一面を現場から語り、現場にいる一人として論評する、生きた日本のポップス・ロック史的な内容を持つ本である。

『アラビアンナイトの殺人』ディクスン・カー、宇野利泰訳(東京創元社、創元推理文庫 1961.6.16 原著 1936刊行)

1973年の秋の始め頃、13歳中二の私はこの分厚い文庫を買ってきて読み始めた。カーについてはその前に現代教養文庫から出ていた江戸川乱歩の随筆集『「探偵小説」の謎』の中での紹介の文章を読んでいて、密室とオカルト趣味の作風ということを知っていたが、冒頭の紹介文にクリスティー夫人も脱帽と書かれていた『皇帝のかぎ煙草入れ』を読んだら、全然普通のメロドラマだった。今度はどうかと思って読み始めたが……ほどなく中断、最初の方、なんだかまだるっこしくて面白くないのだ。それでずっと中断していて本も売っていたものを、30年ほど経った 2000年頃、新たに買ってきて一読したが、どうにも話が飲み込めず、もう一度読んだ。何人かの若者グループの誰が誰か分からなくなるような感じがあって読みにくい。普通こういう密室殺人に近いような内容ならば現場の見取り図みたいなのが載ってたりするが、そういうものもない。警部、副警視総監、警視の 3人が一夜に起きた東洋博物館での殺人事件の経緯と調査結果を語る。犯人まで推理されるが、それは間違っていて、犯人は逮捕されずに終わる。フェル博士が一晩 3人の話を聞いて真犯人を指摘するという構成だ。カーのオカルト趣味を期待したが、この本にはない。もう一つの作風のドタバタ喜劇は、副警視総監の語る大真面目な老いた宗教家の話の中に多少は意図されているようだった。3人の(アイルランド人、イングランド人、スコットランド人とそれぞれに異なる)語りによって事件を立体的、多面的に見せることが意図されていたと思うが、成功はしていない。解説の中島河太郎が、ヘイクラフトが本作を一時、カーの代表作の一つとしていたことに触れて、いろんな見方があるものだと思う他ないと書いているので、やはり目立った作品とは言えないのだろう。


『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』磯山雅(講談社、講談社学芸文庫 2010.4.12 原著書 1985.4 東京書籍)

バッハのオルガン曲は、最初は「小フーガ」の入った 1枚物の LPを買ったのだが、そのうちヘルムート・ヴァルヒャのオルガン全集を買って聴くようになった。そしてかなりの間、そのオルガン全集ばかり聴いていたのだが、バッハの生涯については LP、CDの解説に簡単に触れられているものを読むだけでろくに知らなかった。一冊ちゃんとしたバッハの伝記的な本を読みたくて探したところ、この本を見つけた。この本はバッハの生涯を語る伝記として必要十分な内容であり、なおかつバッハの代表的な曲の数々を解説している。オルガン全集の後に、バッハのどの曲を聞けばいいか、良いガイドブックとなる本だった。


『半七捕物帳(二)』岡本綺堂(光文社、光文社文庫 2001.11.20)

1巻に引き続き、どんどんと読めてしまう面白さで、本格物としては不十分だが、ハードボイルドの味まで含んだミステリの様々な楽しみをたたえた作品集である。「津の国屋」の前半の怪談噺的展開とか「槍突き」の江戸時代の通り魔犯罪とか興味津々の事件がある。面白いのは、あくまでリアルに半七老人から捕り物のエピソードの話を聞くという形式なので、半七以外の岡っ引きの手柄話、時代をかなりさかのぼった話なども語られるところだ。

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感想文:『半七捕物帳(一)』岡本綺堂

2015/09/15 『半七捕物帳(一)』岡本綺堂(光文社、光文社文庫 2001.11.20)

この夏は光文社文庫の『半七捕物帳(一)』を夢中で読んだ。若い頃は、いや最近まで捕物帳の小説を夢中で読むことになるとは思わなかった。子どもの頃は銭形平次をはじめ、テレビドラマの時代劇では捕物帳のドラマが大流行で、とても通俗なもので年寄りの喜ぶような古臭い時代劇、というイメージが強かったのが、まず敬遠する理由になった。創元推理文庫の日本探偵小説全集が刊行されるようになって、本格推理小説としてよく出来た坂口安吾の安吾捕物帖と久生十蘭の顎十郎捕物帳を読んだが、これらは捕物帳といっても岡っ引きが主人公として活躍するものではない。

日本探偵小説全集で最後になかなか刊行しなかった『名作集 1』が出たのは、もう 21世紀も目前の頃で、冒頭に「半七捕物帳」の二編が収録されている。冒頭に収録されているというのは時代的に早いからである。日本の探偵小説の歴史を簡略に語る場合に捕物帳の存在は省略されるのが常だと思う。ごく簡単に語ってしまうと、乱歩から始まるみたいな話になってしまったりするかも知れないが、もちろん大乱歩以前、明治の黒岩涙香から歴史はある。日本探偵小説全集『名作集 2』の方に中島河太郎による日本探偵小説小史が収録されており、それを読むと涙香以外にもいろいろと探偵小説、推理小説の萌芽はあった。『名作集 1』に収録されている半七物は「お文の魂」と「かむろ蛇」の二編である。このうち「お文の魂」が半七捕物帳の第一作でそれは大正 6年に書かれた。乱歩登場の 5年以上前である。では内容的に半七捕物帳が探偵小説、推理小説と言えるのかというと、確かに本格推理の謎解きとしては不十分なところがあるが、もっと広い意味での探偵小説としては十分な内容である(ちなみに乱歩の最初の随筆集『鬼の言葉』に半七捕物帳が舞台化されたものを観劇して評した文章が収録されている)。

私は『名作集 1』の二編を面白く読んでいたが、最近また読み直してみた。すると、やはり魅了されるものがあった。『半七捕物帳』はかつて(1980年頃)は旺文社の文庫から出ていたのだが、今は光文社の文庫の新装版があるので、その1巻を買ってみた。1作目から13編収録、一晩に一話、という感じで読み進むのが実に楽しかった。「お文の魂」の中で幕末に活躍した半七は江戸の隠れたシャーロック・ホームズであるとされている。ホームズ物に意外とトリッキーな作品が少ないことを指摘したのは乱歩で、確かにホームズ物の面白さというと、狭義の本格探偵小説の枠を超えて、いろいろな要素がその冒険譚の中にあることが言える。半七シリーズも、前近代的な司法制度と犯罪捜査の当時を舞台に、それでもきちんと謎が解かれてゆく面白さもあれば、怪談仕立てのスリル、半七の、ときには足の探偵的な、ときにはアメリカのハードボイルド派に近いような捜査活動の姿、歌舞伎めいたところもある、ときに陰惨な江戸の犯罪のありさま、対して半七の人情と倫理観に裏打ちされた行為と、様々な面白さの要素が小説中にある。そしてホームズ物の魅力の中に小説中に描かれた 19世紀から 20世紀にかけてのロンドンの街の魅力があるように、半七物には季節季節の江戸の町の情緒が描かれている。明治の初めに生まれた作者岡本綺堂は近代化が進む日本、東京の街の中から消え行く江戸の風情を小説中に再現したのだ。

シリーズは、老境の半七が若い「私」に体験談を語るというスタイルであるが、老人半七が淡々と謙虚に昔を語り、「私」が敬意とともに興味深く半七の話を聞いている。いつしか舞台はその頃の江戸に読む者も連れて行かれる。


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感想文:『子ども文化の現代史』野上暁

2015/08/22 『子ども文化の現代史』野上暁(大月書店 2015.3.20)

この本によると、第二次大戦太平洋戦争終戦後、民主的良心的で親や教師に歓迎されるような内容の児童文学雑誌(童話など)が(GHQから用紙を優遇されて)相次いで発刊された。私は読んだことはないが名作とされ、繰り返し映画化もされた『ビルマの竪琴』も、それらの雑誌の一つに連載されたというのを、この本で初めて知った。しかし、子どもたちは当然ながら、そういう親や教師の喜ぶような雑誌より俗悪と言われる粗末な漫画月刊誌の方を夢中になって読んだ。親や教師たちは悪書追放を唱え、手塚治虫の漫画さえ校庭で焚書されたという。しかし、漫画雑誌は発展し続け現在があるのは言うまでもない。

この本ではそういう大人が与える上からの良い子の「児童文化」でなく、大人が与えるものの中から子どもが選び、遊び、変容し、新しく価値を作り出し、子ども同士や大人たちに対してコミュニケイトするという行為であるところの「子ども文化」を、戦後すぐの何もなかったような時代から、電子ガジェットとインターネットの現代まで追いかけた本である。ただ漫然と時代を順に追うだけでなく、その時代時代でのテーマというか、人気の的となった現象、アイテム、メディアをまとまり良く語っている。簡にして要を得た子供文化史ハンドブックと言える。そして、著者の意図として、単に「子ども文化」そのものを語って終るのでなく、子ども文化に大きな影響を受けて形成されて行ったサブカルチャーの流れまでを把握しようとする。

面白いのは、1943年戦局が悪化して行っている時期に生まれた著者は前半、そのまま自らの生い立ち、思い出話を語るような調子で当時の子どもの遊びを語ってゆくが、それがしっかりと当時の子どもの遊びレポートになっている。もちろん戦前にも子どもの文化、遊び、オモチャというものはそれなりに発展していたが、戦争になり敗戦となって無と化し、オモチャに関して言うと、再び明治の頃のような原始的なオモチャから発展して行く流れを繰り返したのだ。長じて高度成長下で成人した著者は小学館に入社、“小学1年生” の編集部で働くようになり、今度は作り手の側から子ども文化を見て行くこととなり、全体としてまとまってこの 70年の子ども文化が語られているのである。

“小学1年生” の編集部ではまず締め切りを守る藤子不二雄の担当となるが、結局、手塚治虫を担当することになる。一方で講談社から代わって小学館が雑誌メディアを独占することになった第二次ウルトラシリーズ放映時に、ウルトラ兄弟という設定作りに関わった一人でもあるという(番組の人気挽回のために「帰ってきたウルトラマン」にウルトラマンとウルトラセブンが登場するとき、編集長が兄弟にしてはどうかと提案、これを聞いた大伴昌司が不満を漏らしたので、著者が “小学3年生” 71年11月号で―東映やくざ映画のような―義兄弟であることを発表したが、73年の「ウルトラマンタロウ」では―すでに当時中学生となった私などはあきれていたような―父や母まで登場しファミリー路線となったのだ)。

「オタク」というと、中森明夫による、その呼称の由来からコミケ、したがって漫画アニメ同人誌、同好者のムーヴメントという流れで私など考えがちだが、上記のように雑誌でウルトラ関係記事を担当したため円谷プロ関係の人脈のあった著者は“少年マガジン”などの図解記事で一時代を作った大伴昌司やその弟子的な位置にあった若者たち(竹内博たち)と交流があり、彼らの作る特撮SF同人誌を見ていて、特撮オタクという観点からオタクの発生を語っている。

1959年生まれで地方都市に育った私には、著者が語る終戦後の少年時代の思い出は部分的には、なんとか片鱗をイメージできるところもある。そして 1960年代から 70年代にかけての子ども文化は身近に接してその後、大人になってからも興味を持って知識を得て、一番良く分かる時代だ。80年代以降となると、その時々のブームとなったことは知ってはいても、内容は具体的に知らない事柄が多く(たとえば「ビックリマン」とはどういうものかとかこの本で初めて知った)、いろいろな知識を得られた。そしてまあ最後に現在の時点でいろいろと思うこと、希望と危惧が語られている。大塚英志の『メディアミックス化する日本』という 2014年に書かれた新書が取り上げられているが、システム化された根本的なところからのメディアミックス……どうなんだろうねえ。


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感想文:“In Concert '70 & '72” Deep Purple

2015/07/06 “In Concert '70 & '72” Deep Purple ( Moraでダウンロード購入 2012.6.13 オリジナルLP 1980発表)

この感想を書くために調べてたら、どうも CDの 2枚目の方の 6曲目 “Space Truckin' ” がオンライン版では抜けてるのだなあ。

もとは 1980年に出された二枚組LPで日本では 1981年発売だそうで、確かにその頃だった。もちろん彼らの極上の第二期のライヴなのだが、ちょうど私が一通りディープ・パープルを聴き終わった頃に出たということで、しかもレコード会社はワーナーじゃなくてトリオという、オーディオ製品ならともかくレコード会社としてはあまりなじみのないところだし、後回しになってそのまま来ていた。最近では PCに取り込んでひさびさにあの『ライヴ・イン・ジャパン』を聴いてみると、なかなかに、そりゃ二十歳の頃は幾度となく聴いていたけど、今聴くとこれがまたいろいろと新たな感慨、発見があるのですよ。そして、前半、アルバム『イン・ロック』発売時の 1970年の 2月と後半、『マシン・ヘッド』発売時の 1972年 3月のライヴからなる、このライヴ盤、聴いてみると胸いっぱいのものがある。前半は、当時において、まことにイノヴェイティヴであり、最初から最後までハードな音が詰まりまくっているあのアルバムそのままの感触で、後半は後年様式美と言われるパープルのスタイルを決定づけたアルバム発表時であるが、まだライヴのスタイルが固まりきらない、どちらにおいても縦横にハードな音がドライヴしまくりである。持てる可能性めいっぱい試し自らの音楽性をアピール、重なるライヴ営業に倦んでいない時期の、時代も彼ら自身も清新な魅力に満ちた時期のライヴ盤である。

ファースト・アルバムの「マンドレイク・ルート」を聴くと、ディープ・パープルのサウンドが基本的には最初から第二期に通じるものであったと分るのだけど、第二期ラインナップとしての「マンドレイク・ルート」がこのアルバムで聴ける。イアン・ギランが第一期の「ハッシュ」を歌うのは編集盤アルバム『パワーハウス』で聴いているけど、今回はじめてギランの「マンドレイク・ルート」を聴いた。なんというか、こうなるかというギランらしいエクストリームなヴォーカルが微笑ましい。後半の客はピーピー鳴らすオモチャみたいなのも持ち込んでいて、MC時に多少ざわついて耳障りであった。

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感想文:『鯉とガスパチョ』ヒカシュー

2015/07/04 『鯉とガスパチョ』ヒカシュー(MAKIGAMI RECORDS 2009.10.20)

2008年 4月発売のアルバム『生きること』に続く 2009年10月発売の 3曲入り CD(シングルCDってことになるのか)で、現在2015年で 10年を迎えている現メンバーでアヴァンギャルド色の強い『転々』、3曲入り『入念』とリリースし、ついで 2008年『生きること』でひとつの区切りとした感があるヒカシューの新たな展開を感じさせるものなのだが、いささかとりとめのないというか、つかみどころのない感じのある 3曲である。ただ、やはり音はすごくいい。

タイトル曲「鯉とガスパッチョ」、聴いているうちに思いついたのは、これは歌謡曲や洋楽でもあったが、いわゆる夏物(特に夏向けに作られた曲)だなということ。そして夏というとヒカシューには、それこそ『夏』というタイトルのアルバムさえあるのだ。セカンド・アルバムである『夏』が 1980年、それから 30年経とうという夏の光景を描いた曲で、夏物らしい間奏のギターも情熱的な音だ。夏に続いては秋の日の」と始まる「珍無類」で「でも いい人はぐらかさないで」というような、分ったような分らないような歌詞は繰り返し聴くとクセになる。ところで歌詞ブックレットを見て見ると、現メンバーの他に、以前の故・野本和浩、トルステン・ラッシュ、新井田耕造、吉森信といった名前が載っているので、その頃の録音も使われているようなのだが、この曲だろうか?と思っている。つかみどころのないような歌詞に対し、音はふと気づくと思いの他ハードだ。3曲目「グローバルシティの憂鬱」、前の 3曲入り CD、そして『生きること』には「デジタルなフランケン」という印象的な曲があったが、やはり ITでネットワークされた現代、という観点での曲、ノリの良さ、曲のキャッチーさでは 3曲中一番の曲だ。もともとテクノポップというジャンルに分類される位置づけで登場し、演奏録音機材がアナログからデジタルへ移り行く前夜であった当初からテクノロジーとの対峙を感じさせるグループだったヒカシューが、やはりそれから30年経とうという現在の変わらぬポジションを確認させるようなナンバーである。

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感想文:『ポール・モーリア ベスト20』

2015/06/25 『ポール・モーリア ベスト20』(Universal Music LLC 配信開始日 2015.6.13 Moraでダウンロード購入)

ベスト盤で、曲目だけ見ると満足の行くものなので、ためらわずに購入したのだが(現在Moraでポール・モーリアの作品を探すとアルバムが何枚か出てくるが、曲名が日本語表記されているのは、これだけ)、1曲目の「恋はみずいろ」冒頭を聞くと、私がなじんだものとアレンジが微妙に違うのが分った。ほんのちょっとした違いで、繰り返し聞いているとかえって気にならなくなるほどだが、各々の楽器のフレーズ、混ざり具合が少し違う。特に分りやすいのはイントロからメロディに入って 4小節目がすんだ区切りでドラムが入るところでオリジナルのものは「ドッドッ」と二拍なのだが、これはもっと細かく打っている。他の曲はアレンジ違いかどうか判断できないが、全体に音がとてもいいので、「恋はみずいろ」以外も古い時代のものは録音し直したものではないかと私は思うのだが……。理由は後述。

ポール・モーリアは 1970年代初頭、私がラジオで洋楽を聞き始めた頃に「恋はみずいろ」「黒ワシ」(1971年初夏の時点での新譜だったと思う)と聴いて、たいそう好きになり、それ以来好意を持っているイージー・リスニングの音楽家である。といっても、ロックとかいろいろ聴いてるあいまに聴くという形なので、アルバムは 1978年の春に買ったベスト盤『ベスト・アプローズ ポール・モーリア』の中から気に入った曲をカセットテープに録音したものをずっと聞いていて、アルバムはすぐに売ってしまっていた。そのアルバム、1枚物だったか 2枚組だったか思い出せないが、テープに入れている曲目は

A.
恋はみずいろ L'AMOUR EST BLUE (アンドレ・ポップ)
黒いワシ L'AIGLE NOIR "De die a Laurence" (バルバラ)
蒼いノクターン NOCTURNE (ポール・モーリア)
エーゲ海の真珠 PENELOPE (ジョルジュ・ブラッサンス)
恋のアランフェス ARANJUEZ d'apies l'adagio (ホアキン・ドロリーゴ、ギイ・ボンタンペリ)

B.
愛の願い LOVE ME, PLEASE LOVE ME (ミッシェル・ポルナレフ)
シバの女王 LA REINE DE SABA (ミッシェル・ローラン)
愛のおそれ J'AI PEUR (エンリコ・マシアス)
サウンド・オブ・サイレンス (ポール・サイモン)
シェルブールの雨傘 GENERIQUE DU film "LES PARPLUES DE CHERBOURG" (ミッシェル・ルブラン)
夜のメロディー LA NUIT (サルヴァトーレ・アダモ)
輝く星座 AQUARIUS (マクダー・モット)

 ……である。「涙のトッカータ」「オリーブの首飾り」といった代表曲がテープに入ってないのは、気に入ってないからではなく、レコードに入ってなかったからで、つまりそれだけ早い時代のベスト盤だったのだ。

CD時代に入ってから、CDのベスト盤を探したのだが(まだ 1980年代の話)、いくつか出てるベスト盤で、1枚でこれ、というのがなく、気に入った曲をすべて押さえようとしたら何枚組かのものになる、それで気軽に手出し出来ずにいた。今世紀に入る頃にベストと題されているものを 1枚買ったが、これは原題が “Best Of Paul Mauriat French Pops”、つまりポール・モーリアのベストはなく、フレンチ・ポップスのベスト盤ということなので、ポール・モーリアの曲として知られているものは「恋はみずいろ」、「黒いワシ」が入っているだけ、それでもこの二曲が気軽に聴けるならと思って買った。このたび「エーゲ海の真珠」が聴きたくなって(テープおよびそれを PCに取り込んだものはあったのだが)、このベスト盤をダウンロード購入したところ、「恋はみずいろ」のアレンジ違いに気づいたのだ。

そこで現在入手できるベスト盤CDを探して Amazonのレヴューを見てみた。その結果、大丈夫そう(「恋はみずいろ」が確実にオリジナル・ヴァージョンである)と思われるのは『ポール・モーリア全集 オリーヴの首飾り Original recording remastered』という 2008年のものがそれらしく思えた。最近では 2014年の『プレミアム・ツイン・ベスト ポール・モーリア 恋はみずいろ』というのがあったが、詳細は分らない。さらに調べると、ちょうどポール・モーリア生誕90周年記念のベスト盤が発売されたというニュースを見つけた。

「ポール・モーリア生誕90周年を記念したベスト盤が発売、日本初収録曲も」(RBBTODAY 2015年6月19日(金) 10時00分)
http://www.rbbtoday.com/article/2015/06/19/132432.html

その発売元を見てみた。株式会社燈音舎という聞いたことのない会社で、新聞によく通販のみの販売で CDのセットの広告が出てるが、ああいうものを売っている会社かなと思った。そのサイトは「音楽のある風景」というのだが、さらにサイトを見ると、どうやら BSで同タイトルの番組をやってて、そこで通販をやってるらしいのだ。ユニバーサルミュージックの通販部門を請け負っている形になっているらしい。ふだんそういう通販の類は利用しないのだが、その「ポール・モーリア生誕90周年を記念したベスト盤」の内容が、出来る限り良い状態のオリジナル・ヴァージョンを選んでリマスターしたとある。その宣伝文によると、完璧主義者のポール・モーリアは古い作品の CD化を許可せず、新たに録音したものが流通していたというのだ。なるほど、それでこの「恋はみずいろ」のアレンジ違いの件が分った(と思うのだが、確かなことは分らない)。ちなみに私の持っているフレンチ・ポップスのベストの CDの「恋はみずいろ」は私が良く聞いたオリジナルと思われるアレンジのものだった。5枚組というセットに収録される曲目には申し分なく、この機会にこれさえ持っていればいいと思われる内容の、そのセットを買うことに決めた。私がこの電子データをダウンロード購入したのが 6月19日で、その 5枚組セットのリリースは 18日だったという。

そういうわけで、ポール・モーリアのベスト盤の感想は 5枚組 “Paul Mauriat Best 100” に続く。

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感想文:『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

2015/06/18 『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ(文芸春秋、文春文庫 2009.8.10 オリジナル単行本 2006年刊行)

岡山市にジュンク堂は無くなってしまったけど、ジュンク堂があったときに、そのズラーッと並んでる文庫棚の文春文庫のところにタイトルが目について、たまには新しい作家の本を読んでみるかと買ってみた。ページ数が薄かったのも気が楽だった。タイトルの魅いたところは、なんとなくハードボイルドっぽい、そして作者名が女性らしいので、なんかカッコいいなと感じたのだったが、読んでみると、表題作は単に若気の至りの痛い男女の離婚話、しかも作者は男性だった(角田光代、といっても名前しか知らないが、その人の夫なのだそう)。

冒頭、自動販売機のルートサービスにまわる男女の話というので、良さそうなシチュエーションだと思ったんだけど……。トラックでまわる女性の方の、離婚の先輩である水城さんは魅力的なキャラクターで、最後にまわった歌舞伎町の連れ込み旅館でシャワー浴びさせてくれるというので彼女が使うところが良かった。二人の働いている事業所がセクハラとかあってバイトが大変だというのがわざとらしい。いろいろある世の中で今まで以上にいろいろある21世紀の世界で、取るに足らない男女の離婚話、知るかよ、どーでもいい…って思わせちゃったらいかんわな。

ネット書店アマゾンのレビューを見たら、結構な数あって、評価は毀誉褒貶半々で結局真ん中くらいという。こういう話が身近というか、身につまされるというかで良かったって人もいるのだ。

で、これが文庫本 88ページで後2編短編がある。「貝から見る風景」と「安定期つれづれ」だが、なんと「安定期つれづれ」は文庫化で収録されたというから、薄い本だなと思ったが(ページ数約 180)、もとはもっと薄かったのだ。「貝から見る風景」は、オフィスで働いている女房をスーパーマーケットで待つライターの夫の話で、店への投書掲示板が話のネタになる。多少興味を引くが、まあそれほどでもなく、落ち着くところへ落ち着く。「安定期つれづれ」は、夫の家庭とうまく行ってなくて実家に帰ってきて出産する予定の不動産屋勤めの女とその父親で禁煙を始めた老人の話、「八月の路上に捨てる」同様、この二編にも、この世界の片隅の登場人物のささやかな心の成長というのか生きている心の変化というのか、そういうのがあるけど、まああんましどうでもいいです、という読後感だった。


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アイドルマスター 萩原雪歩 on キャラアニ.com

アイドルマスター 萩原雪歩 【2015年11月出荷予定分】
発売元 Phat!
予約期間 ~ 2015年7月6日

アイドルマスター 萩原雪歩 【2015年11月出荷予定分】
(C) BNEI/PROJECT iM@S

夏らしい。

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感想文:『カーテン』アガサ・クリスティ、中村能三訳

2015/06/08 『カーテン』アガサ・クリスティ、中村能三訳(早川書房、早川文庫 1982.10.31 原著、日本語訳単行本は1975年刊行)

調べたら今は新訳が出てるのか、知らなかった。ちょうど新訳の出る直前に、この文庫本を買ったことになるのだな。本の最後に中島河太郎の解説が載っていて、当たり前のように読んだけど、考えてみれば、これ、創元推理文庫じゃない、早川なのだ。創元推理文庫でずいぶん中島河太郎の解説読んだけど、早川文庫に書いてたこともあったんだ(まあ、この本が最後のポアロ物という特別なものだからだろうけど)。

今まであまり意識してなかったけど、そういえばポアロには「ポワロ」と「ポアロ」二つの日本語表記がある。この本では「ポアロ」なので「ポアロ」にしておこう。ポアロ探偵には、私は本格推理小説の天才型名探偵に感じる得体の知れなさを感じるときもあったけど、彼は天才型名探偵であるとともに、元ベルギー警察の署長でもあったのだな、元警察関係者らしい強い倫理観の持ち主でもあったのだということを思い出させてくれる最後の事件であった。そう、ポアロ最後の事件であるということは、副題にもつけられているし、この本が刊行後すぐに日本語訳が出たときも大きく宣伝されていた。解説に週刊誌にも連載されたとあるが、確か “週刊文春” じゃなかったかな?それで私ももちろん本の存在を知ってたのだが、その頃は当時創元推理文庫で読める本しか読んでなかった(早川がミステリの文庫を始める直前)、それから約40年でポアロ物の代表長編を読んできて、『葬儀を終えて』、『象は忘れない』と後期、晩年の作品まで読んだので、もう読んでもいいかな、という心境で読んだ。

当初は作者没後の刊行を意図していたという「最後の事件」だが、書かれたのは 1940年代だという。だけど、この作中で描かれるポアロは老齢で身体的な不安を抱え、車椅子に乗り、ジョージに代わる従者に面倒を見られている。そのポアロが居を定めたのが、イギリスにおいて最初に住み、語り手であるヘイスティングス大尉と知り合ったスタイルズ荘であった、ということなのだ。そのかつての事件は『スタイルズの怪事件』としてまとめられている。クリスティのミステリー処女作である。私がクリスティを初めて読んだのは、あかね書房のジュニア向け世界のミステリ全集で、『ABC殺人事件』と『大空の死(雲をつかむ死)』が収録された本だった。その頃までは、もっぱらジュニア向けのホームズ、ルパン物を読んでいたのだが、ホームズ物が好きだった私には、ポアロと行動をともにするヘイスティングス大尉が語り手であるというスタイルになじめた。そこで次には初めて創元推理文庫で『ポワロの事件簿』2を、『ホームズの冒険』と一緒に買って、大人物の本を読み始めたのだった。小学6年の春だった。『ポワロの事件簿』が 2なのは、本屋の棚に 1が無かったというだけの理由で、それから創元推理文庫のクリスティ作品はかなり読んだが、その頃『スタイルズの怪事件』がちょうどカタログに無く(古い本にはリストに載ってたのだが、それが絶版になっていた)、新たに刊行された『スタイルズの怪事件』を読んだのは、1980年頃と、少し遅かった。

そのスタイルズ荘が舞台で、しかもポアロから呼び寄せられたヘイスティングスが語り手となる。『スタイルズの怪事件』、そしてそれ以前に私が読んでいる『ABC殺人事件』、そして『ポワロの事件簿』の二冊はヘイスティングスが語り手なのだが、その後、ポアロ物のうち評価の高そうな長編ということで私が読んだ本で、ヘイスティングスが語り手のものはなかったので、まさに懐かしい再会であった。しかし、ヘイスティングスの目に痛々しく映る高齢のポアロの描写と並んで、ヘイスティングスの娘(しかも長女ではない)が成人して働いており、亡くなった妻のことを嘆いているヘイスティングスの心境も、この最後の事件を迎えるに至った時の経過を伝える。

クリスティを手始めに大人向けのl本格推理小説を読み始めた私だったが、本格長編の小説が案外に読むのが苦痛だ、クリスティの小説がその中で例外的に面白く読めるのだ、というのはそのうち私も気づいた。クリスティの小説では殺人の謎の解決とともに、登場人物たちの人生ドラマも快く結末を迎えるのだ。この本では、そのドラマにヘイスティングスの娘ジュディスが加わり、彼女の動向に対してヘイスティングスが気を揉むことがいつもの長編と違った味を加えている。そしてポアロがヘイスティングスを呼び寄せた理由は、すでにかなり以前に解決した5つの、納得行く愛憎の動機による殺人事件が実は、その背後に暗躍する同一人物がいる、本当の真犯人がいるというのだ。その人物が今度はこのスタイルズ荘の住人となっている、その人物を探して新たな事件をくいとめなければならないという。そのためにヘイスティングスの力を借りたいというのだ。どういうことなのだろう、よく分らないけど、とにかくこのスタイルズ荘で新たな悲劇が起こりそうなのである。前半、なかなか目立った事件は起こらないけど、これらの要因によって、なんとも漠然と不安と悲劇を予兆させる雰囲気のうちに物語が進んで行くのが、なんともいえない。そしてついに事件は起こり始める……。

真相を知って連想したのは乱歩の名づけたところのプロバビリティの犯罪である。あれとはまたちょっと違うけど、犯罪にならない犯罪であって、犯罪をめぐる謎の解決という乱歩の定義によると、やっぱりこれも本格推理の領域だが、探偵される対象としては限界の領域というか極北というか、そういうものなのだ。しかし、確かにそこに「悪」はある。


ポアロ最後の事件という悲劇……といって案外、すんなりと私が受け入れられたのは、ポアロがすでにかなりの老齢として描かれているからというところがあると思う。そして、しかし、ポアロらしく、まったく几帳面にケリをつけ、後始末をしているのだった。本当に終盤近くで、ポアロの後をついでヘイスティングスが真相解決を試みるが、やはりいつものように失敗しているのが悲しくも微笑ましい。最後には、後で思えば、これはないだろうという人物までが疑惑の対象になるのだった。そして、他の人物に関していえば、ヘイスティングスの娘ジュディスには事件の終わりと同時に新たな旅立ちがあった。私は刊行された頃は、作者自ら「最後の事件」をわざわざ書かなくてもいいのにという思いだったが、今ではこういうのもありかな、という気持ちである。


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