感想文:『半七捕物帳(一)』岡本綺堂

2015/09/15 『半七捕物帳(一)』岡本綺堂(光文社、光文社文庫 2001.11.20)

この夏は光文社文庫の『半七捕物帳(一)』を夢中で読んだ。若い頃は、いや最近まで捕物帳の小説を夢中で読むことになるとは思わなかった。子どもの頃は銭形平次をはじめ、テレビドラマの時代劇では捕物帳のドラマが大流行で、とても通俗なもので年寄りの喜ぶような古臭い時代劇、というイメージが強かったのが、まず敬遠する理由になった。創元推理文庫の日本探偵小説全集が刊行されるようになって、本格推理小説としてよく出来た坂口安吾の安吾捕物帖と久生十蘭の顎十郎捕物帳を読んだが、これらは捕物帳といっても岡っ引きが主人公として活躍するものではない。

日本探偵小説全集で最後になかなか刊行しなかった『名作集 1』が出たのは、もう 21世紀も目前の頃で、冒頭に「半七捕物帳」の二編が収録されている。冒頭に収録されているというのは時代的に早いからである。日本の探偵小説の歴史を簡略に語る場合に捕物帳の存在は省略されるのが常だと思う。ごく簡単に語ってしまうと、乱歩から始まるみたいな話になってしまったりするかも知れないが、もちろん大乱歩以前、明治の黒岩涙香から歴史はある。日本探偵小説全集『名作集 2』の方に中島河太郎による日本探偵小説小史が収録されており、それを読むと涙香以外にもいろいろと探偵小説、推理小説の萌芽はあった。『名作集 1』に収録されている半七物は「お文の魂」と「かむろ蛇」の二編である。このうち「お文の魂」が半七捕物帳の第一作でそれは大正 6年に書かれた。乱歩登場の 5年以上前である。では内容的に半七捕物帳が探偵小説、推理小説と言えるのかというと、確かに本格推理の謎解きとしては不十分なところがあるが、もっと広い意味での探偵小説としては十分な内容である(ちなみに乱歩の最初の随筆集『鬼の言葉』に半七捕物帳が舞台化されたものを観劇して評した文章が収録されている)。

私は『名作集 1』の二編を面白く読んでいたが、最近また読み直してみた。すると、やはり魅了されるものがあった。『半七捕物帳』はかつて(1980年頃)は旺文社の文庫から出ていたのだが、今は光文社の文庫の新装版があるので、その1巻を買ってみた。1作目から13編収録、一晩に一話、という感じで読み進むのが実に楽しかった。「お文の魂」の中で幕末に活躍した半七は江戸の隠れたシャーロック・ホームズであるとされている。ホームズ物に意外とトリッキーな作品が少ないことを指摘したのは乱歩で、確かにホームズ物の面白さというと、狭義の本格探偵小説の枠を超えて、いろいろな要素がその冒険譚の中にあることが言える。半七シリーズも、前近代的な司法制度と犯罪捜査の当時を舞台に、それでもきちんと謎が解かれてゆく面白さもあれば、怪談仕立てのスリル、半七の、ときには足の探偵的な、ときにはアメリカのハードボイルド派に近いような捜査活動の姿、歌舞伎めいたところもある、ときに陰惨な江戸の犯罪のありさま、対して半七の人情と倫理観に裏打ちされた行為と、様々な面白さの要素が小説中にある。そしてホームズ物の魅力の中に小説中に描かれた 19世紀から 20世紀にかけてのロンドンの街の魅力があるように、半七物には季節季節の江戸の町の情緒が描かれている。明治の初めに生まれた作者岡本綺堂は近代化が進む日本、東京の街の中から消え行く江戸の風情を小説中に再現したのだ。

シリーズは、老境の半七が若い「私」に体験談を語るというスタイルであるが、老人半七が淡々と謙虚に昔を語り、「私」が敬意とともに興味深く半七の話を聞いている。いつしか舞台はその頃の江戸に読む者も連れて行かれる。


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感想文:『子ども文化の現代史』野上暁

2015/08/22 『子ども文化の現代史』野上暁(大月書店 2015.3.20)

この本によると、第二次大戦太平洋戦争終戦後、民主的良心的で親や教師に歓迎されるような内容の児童文学雑誌(童話など)が(GHQから用紙を優遇されて)相次いで発刊された。私は読んだことはないが名作とされ、繰り返し映画化もされた『ビルマの竪琴』も、それらの雑誌の一つに連載されたというのを、この本で初めて知った。しかし、子どもたちは当然ながら、そういう親や教師の喜ぶような雑誌より俗悪と言われる粗末な漫画月刊誌の方を夢中になって読んだ。親や教師たちは悪書追放を唱え、手塚治虫の漫画さえ校庭で焚書されたという。しかし、漫画雑誌は発展し続け現在があるのは言うまでもない。

この本ではそういう大人が与える上からの良い子の「児童文化」でなく、大人が与えるものの中から子どもが選び、遊び、変容し、新しく価値を作り出し、子ども同士や大人たちに対してコミュニケイトするという行為であるところの「子ども文化」を、戦後すぐの何もなかったような時代から、電子ガジェットとインターネットの現代まで追いかけた本である。ただ漫然と時代を順に追うだけでなく、その時代時代でのテーマというか、人気の的となった現象、アイテム、メディアをまとまり良く語っている。簡にして要を得た子供文化史ハンドブックと言える。そして、著者の意図として、単に「子ども文化」そのものを語って終るのでなく、子ども文化に大きな影響を受けて形成されて行ったサブカルチャーの流れまでを把握しようとする。

面白いのは、1943年戦局が悪化して行っている時期に生まれた著者は前半、そのまま自らの生い立ち、思い出話を語るような調子で当時の子どもの遊びを語ってゆくが、それがしっかりと当時の子どもの遊びレポートになっている。もちろん戦前にも子どもの文化、遊び、オモチャというものはそれなりに発展していたが、戦争になり敗戦となって無と化し、オモチャに関して言うと、再び明治の頃のような原始的なオモチャから発展して行く流れを繰り返したのだ。長じて高度成長下で成人した著者は小学館に入社、“小学1年生” の編集部で働くようになり、今度は作り手の側から子ども文化を見て行くこととなり、全体としてまとまってこの 70年の子ども文化が語られているのである。

“小学1年生” の編集部ではまず締め切りを守る藤子不二雄の担当となるが、結局、手塚治虫を担当することになる。一方で講談社から代わって小学館が雑誌メディアを独占することになった第二次ウルトラシリーズ放映時に、ウルトラ兄弟という設定作りに関わった一人でもあるという(番組の人気挽回のために「帰ってきたウルトラマン」にウルトラマンとウルトラセブンが登場するとき、編集長が兄弟にしてはどうかと提案、これを聞いた大伴昌司が不満を漏らしたので、著者が “小学3年生” 71年11月号で―東映やくざ映画のような―義兄弟であることを発表したが、73年の「ウルトラマンタロウ」では―すでに当時中学生となった私などはあきれていたような―父や母まで登場しファミリー路線となったのだ)。

「オタク」というと、中森明夫による、その呼称の由来からコミケ、したがって漫画アニメ同人誌、同好者のムーヴメントという流れで私など考えがちだが、上記のように雑誌でウルトラ関係記事を担当したため円谷プロ関係の人脈のあった著者は“少年マガジン”などの図解記事で一時代を作った大伴昌司やその弟子的な位置にあった若者たち(竹内博たち)と交流があり、彼らの作る特撮SF同人誌を見ていて、特撮オタクという観点からオタクの発生を語っている。

1959年生まれで地方都市に育った私には、著者が語る終戦後の少年時代の思い出は部分的には、なんとか片鱗をイメージできるところもある。そして 1960年代から 70年代にかけての子ども文化は身近に接してその後、大人になってからも興味を持って知識を得て、一番良く分かる時代だ。80年代以降となると、その時々のブームとなったことは知ってはいても、内容は具体的に知らない事柄が多く(たとえば「ビックリマン」とはどういうものかとかこの本で初めて知った)、いろいろな知識を得られた。そしてまあ最後に現在の時点でいろいろと思うこと、希望と危惧が語られている。大塚英志の『メディアミックス化する日本』という 2014年に書かれた新書が取り上げられているが、システム化された根本的なところからのメディアミックス……どうなんだろうねえ。


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感想文:“In Concert '70 & '72” Deep Purple

2015/07/06 “In Concert '70 & '72” Deep Purple ( Moraでダウンロード購入 2012.6.13 オリジナルLP 1980発表)

この感想を書くために調べてたら、どうも CDの 2枚目の方の 6曲目 “Space Truckin' ” がオンライン版では抜けてるのだなあ。

もとは 1980年に出された二枚組LPで日本では 1981年発売だそうで、確かにその頃だった。もちろん彼らの極上の第二期のライヴなのだが、ちょうど私が一通りディープ・パープルを聴き終わった頃に出たということで、しかもレコード会社はワーナーじゃなくてトリオという、オーディオ製品ならともかくレコード会社としてはあまりなじみのないところだし、後回しになってそのまま来ていた。最近では PCに取り込んでひさびさにあの『ライヴ・イン・ジャパン』を聴いてみると、なかなかに、そりゃ二十歳の頃は幾度となく聴いていたけど、今聴くとこれがまたいろいろと新たな感慨、発見があるのですよ。そして、前半、アルバム『イン・ロック』発売時の 1970年の 2月と後半、『マシン・ヘッド』発売時の 1972年 3月のライヴからなる、このライヴ盤、聴いてみると胸いっぱいのものがある。前半は、当時において、まことにイノヴェイティヴであり、最初から最後までハードな音が詰まりまくっているあのアルバムそのままの感触で、後半は後年様式美と言われるパープルのスタイルを決定づけたアルバム発表時であるが、まだライヴのスタイルが固まりきらない、どちらにおいても縦横にハードな音がドライヴしまくりである。持てる可能性めいっぱい試し自らの音楽性をアピール、重なるライヴ営業に倦んでいない時期の、時代も彼ら自身も清新な魅力に満ちた時期のライヴ盤である。

ファースト・アルバムの「マンドレイク・ルート」を聴くと、ディープ・パープルのサウンドが基本的には最初から第二期に通じるものであったと分るのだけど、第二期ラインナップとしての「マンドレイク・ルート」がこのアルバムで聴ける。イアン・ギランが第一期の「ハッシュ」を歌うのは編集盤アルバム『パワーハウス』で聴いているけど、今回はじめてギランの「マンドレイク・ルート」を聴いた。なんというか、こうなるかというギランらしいエクストリームなヴォーカルが微笑ましい。後半の客はピーピー鳴らすオモチャみたいなのも持ち込んでいて、MC時に多少ざわついて耳障りであった。

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感想文:『鯉とガスパチョ』ヒカシュー

2015/07/04 『鯉とガスパチョ』ヒカシュー(MAKIGAMI RECORDS 2009.10.20)

2008年 4月発売のアルバム『生きること』に続く 2009年10月発売の 3曲入り CD(シングルCDってことになるのか)で、現在2015年で 10年を迎えている現メンバーでアヴァンギャルド色の強い『転々』、3曲入り『入念』とリリースし、ついで 2008年『生きること』でひとつの区切りとした感があるヒカシューの新たな展開を感じさせるものなのだが、いささかとりとめのないというか、つかみどころのない感じのある 3曲である。ただ、やはり音はすごくいい。

タイトル曲「鯉とガスパッチョ」、聴いているうちに思いついたのは、これは歌謡曲や洋楽でもあったが、いわゆる夏物(特に夏向けに作られた曲)だなということ。そして夏というとヒカシューには、それこそ『夏』というタイトルのアルバムさえあるのだ。セカンド・アルバムである『夏』が 1980年、それから 30年経とうという夏の光景を描いた曲で、夏物らしい間奏のギターも情熱的な音だ。夏に続いては秋の日の」と始まる「珍無類」で「でも いい人はぐらかさないで」というような、分ったような分らないような歌詞は繰り返し聴くとクセになる。ところで歌詞ブックレットを見て見ると、現メンバーの他に、以前の故・野本和浩、トルステン・ラッシュ、新井田耕造、吉森信といった名前が載っているので、その頃の録音も使われているようなのだが、この曲だろうか?と思っている。つかみどころのないような歌詞に対し、音はふと気づくと思いの他ハードだ。3曲目「グローバルシティの憂鬱」、前の 3曲入り CD、そして『生きること』には「デジタルなフランケン」という印象的な曲があったが、やはり ITでネットワークされた現代、という観点での曲、ノリの良さ、曲のキャッチーさでは 3曲中一番の曲だ。もともとテクノポップというジャンルに分類される位置づけで登場し、演奏録音機材がアナログからデジタルへ移り行く前夜であった当初からテクノロジーとの対峙を感じさせるグループだったヒカシューが、やはりそれから30年経とうという現在の変わらぬポジションを確認させるようなナンバーである。

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感想文:『ポール・モーリア ベスト20』

2015/06/25 『ポール・モーリア ベスト20』(Universal Music LLC 配信開始日 2015.6.13 Moraでダウンロード購入)

ベスト盤で、曲目だけ見ると満足の行くものなので、ためらわずに購入したのだが(現在Moraでポール・モーリアの作品を探すとアルバムが何枚か出てくるが、曲名が日本語表記されているのは、これだけ)、1曲目の「恋はみずいろ」冒頭を聞くと、私がなじんだものとアレンジが微妙に違うのが分った。ほんのちょっとした違いで、繰り返し聞いているとかえって気にならなくなるほどだが、各々の楽器のフレーズ、混ざり具合が少し違う。特に分りやすいのはイントロからメロディに入って 4小節目がすんだ区切りでドラムが入るところでオリジナルのものは「ドッドッ」と二拍なのだが、これはもっと細かく打っている。他の曲はアレンジ違いかどうか判断できないが、全体に音がとてもいいので、「恋はみずいろ」以外も古い時代のものは録音し直したものではないかと私は思うのだが……。理由は後述。

ポール・モーリアは 1970年代初頭、私がラジオで洋楽を聞き始めた頃に「恋はみずいろ」「黒ワシ」(1971年初夏の時点での新譜だったと思う)と聴いて、たいそう好きになり、それ以来好意を持っているイージー・リスニングの音楽家である。といっても、ロックとかいろいろ聴いてるあいまに聴くという形なので、アルバムは 1978年の春に買ったベスト盤『ベスト・アプローズ ポール・モーリア』の中から気に入った曲をカセットテープに録音したものをずっと聞いていて、アルバムはすぐに売ってしまっていた。そのアルバム、1枚物だったか 2枚組だったか思い出せないが、テープに入れている曲目は

A.
恋はみずいろ L'AMOUR EST BLUE (アンドレ・ポップ)
黒いワシ L'AIGLE NOIR "De die a Laurence" (バルバラ)
蒼いノクターン NOCTURNE (ポール・モーリア)
エーゲ海の真珠 PENELOPE (ジョルジュ・ブラッサンス)
恋のアランフェス ARANJUEZ d'apies l'adagio (ホアキン・ドロリーゴ、ギイ・ボンタンペリ)

B.
愛の願い LOVE ME, PLEASE LOVE ME (ミッシェル・ポルナレフ)
シバの女王 LA REINE DE SABA (ミッシェル・ローラン)
愛のおそれ J'AI PEUR (エンリコ・マシアス)
サウンド・オブ・サイレンス (ポール・サイモン)
シェルブールの雨傘 GENERIQUE DU film "LES PARPLUES DE CHERBOURG" (ミッシェル・ルブラン)
夜のメロディー LA NUIT (サルヴァトーレ・アダモ)
輝く星座 AQUARIUS (マクダー・モット)

 ……である。「涙のトッカータ」「オリーブの首飾り」といった代表曲がテープに入ってないのは、気に入ってないからではなく、レコードに入ってなかったからで、つまりそれだけ早い時代のベスト盤だったのだ。

CD時代に入ってから、CDのベスト盤を探したのだが(まだ 1980年代の話)、いくつか出てるベスト盤で、1枚でこれ、というのがなく、気に入った曲をすべて押さえようとしたら何枚組かのものになる、それで気軽に手出し出来ずにいた。今世紀に入る頃にベストと題されているものを 1枚買ったが、これは原題が “Best Of Paul Mauriat French Pops”、つまりポール・モーリアのベストはなく、フレンチ・ポップスのベスト盤ということなので、ポール・モーリアの曲として知られているものは「恋はみずいろ」、「黒いワシ」が入っているだけ、それでもこの二曲が気軽に聴けるならと思って買った。このたび「エーゲ海の真珠」が聴きたくなって(テープおよびそれを PCに取り込んだものはあったのだが)、このベスト盤をダウンロード購入したところ、「恋はみずいろ」のアレンジ違いに気づいたのだ。

そこで現在入手できるベスト盤CDを探して Amazonのレヴューを見てみた。その結果、大丈夫そう(「恋はみずいろ」が確実にオリジナル・ヴァージョンである)と思われるのは『ポール・モーリア全集 オリーヴの首飾り Original recording remastered』という 2008年のものがそれらしく思えた。最近では 2014年の『プレミアム・ツイン・ベスト ポール・モーリア 恋はみずいろ』というのがあったが、詳細は分らない。さらに調べると、ちょうどポール・モーリア生誕90周年記念のベスト盤が発売されたというニュースを見つけた。

「ポール・モーリア生誕90周年を記念したベスト盤が発売、日本初収録曲も」(RBBTODAY 2015年6月19日(金) 10時00分)
http://www.rbbtoday.com/article/2015/06/19/132432.html

その発売元を見てみた。株式会社燈音舎という聞いたことのない会社で、新聞によく通販のみの販売で CDのセットの広告が出てるが、ああいうものを売っている会社かなと思った。そのサイトは「音楽のある風景」というのだが、さらにサイトを見ると、どうやら BSで同タイトルの番組をやってて、そこで通販をやってるらしいのだ。ユニバーサルミュージックの通販部門を請け負っている形になっているらしい。ふだんそういう通販の類は利用しないのだが、その「ポール・モーリア生誕90周年を記念したベスト盤」の内容が、出来る限り良い状態のオリジナル・ヴァージョンを選んでリマスターしたとある。その宣伝文によると、完璧主義者のポール・モーリアは古い作品の CD化を許可せず、新たに録音したものが流通していたというのだ。なるほど、それでこの「恋はみずいろ」のアレンジ違いの件が分った(と思うのだが、確かなことは分らない)。ちなみに私の持っているフレンチ・ポップスのベストの CDの「恋はみずいろ」は私が良く聞いたオリジナルと思われるアレンジのものだった。5枚組というセットに収録される曲目には申し分なく、この機会にこれさえ持っていればいいと思われる内容の、そのセットを買うことに決めた。私がこの電子データをダウンロード購入したのが 6月19日で、その 5枚組セットのリリースは 18日だったという。

そういうわけで、ポール・モーリアのベスト盤の感想は 5枚組 “Paul Mauriat Best 100” に続く。

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感想文:『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

2015/06/18 『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ(文芸春秋、文春文庫 2009.8.10 オリジナル単行本 2006年刊行)

岡山市にジュンク堂は無くなってしまったけど、ジュンク堂があったときに、そのズラーッと並んでる文庫棚の文春文庫のところにタイトルが目について、たまには新しい作家の本を読んでみるかと買ってみた。ページ数が薄かったのも気が楽だった。タイトルの魅いたところは、なんとなくハードボイルドっぽい、そして作者名が女性らしいので、なんかカッコいいなと感じたのだったが、読んでみると、表題作は単に若気の至りの痛い男女の離婚話、しかも作者は男性だった(角田光代、といっても名前しか知らないが、その人の夫なのだそう)。

冒頭、自動販売機のルートサービスにまわる男女の話というので、良さそうなシチュエーションだと思ったんだけど……。トラックでまわる女性の方の、離婚の先輩である水城さんは魅力的なキャラクターで、最後にまわった歌舞伎町の連れ込み旅館でシャワー浴びさせてくれるというので彼女が使うところが良かった。二人の働いている事業所がセクハラとかあってバイトが大変だというのがわざとらしい。いろいろある世の中で今まで以上にいろいろある21世紀の世界で、取るに足らない男女の離婚話、知るかよ、どーでもいい…って思わせちゃったらいかんわな。

ネット書店アマゾンのレビューを見たら、結構な数あって、評価は毀誉褒貶半々で結局真ん中くらいという。こういう話が身近というか、身につまされるというかで良かったって人もいるのだ。

で、これが文庫本 88ページで後2編短編がある。「貝から見る風景」と「安定期つれづれ」だが、なんと「安定期つれづれ」は文庫化で収録されたというから、薄い本だなと思ったが(ページ数約 180)、もとはもっと薄かったのだ。「貝から見る風景」は、オフィスで働いている女房をスーパーマーケットで待つライターの夫の話で、店への投書掲示板が話のネタになる。多少興味を引くが、まあそれほどでもなく、落ち着くところへ落ち着く。「安定期つれづれ」は、夫の家庭とうまく行ってなくて実家に帰ってきて出産する予定の不動産屋勤めの女とその父親で禁煙を始めた老人の話、「八月の路上に捨てる」同様、この二編にも、この世界の片隅の登場人物のささやかな心の成長というのか生きている心の変化というのか、そういうのがあるけど、まああんましどうでもいいです、という読後感だった。


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アイドルマスター 萩原雪歩 on キャラアニ.com

アイドルマスター 萩原雪歩 【2015年11月出荷予定分】
発売元 Phat!
予約期間 ~ 2015年7月6日

アイドルマスター 萩原雪歩 【2015年11月出荷予定分】
(C) BNEI/PROJECT iM@S

夏らしい。

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感想文:『カーテン』アガサ・クリスティ、中村能三訳

2015/06/08 『カーテン』アガサ・クリスティ、中村能三訳(早川書房、早川文庫 1982.10.31 原著、日本語訳単行本は1975年刊行)

調べたら今は新訳が出てるのか、知らなかった。ちょうど新訳の出る直前に、この文庫本を買ったことになるのだな。本の最後に中島河太郎の解説が載っていて、当たり前のように読んだけど、考えてみれば、これ、創元推理文庫じゃない、早川なのだ。創元推理文庫でずいぶん中島河太郎の解説読んだけど、早川文庫に書いてたこともあったんだ(まあ、この本が最後のポアロ物という特別なものだからだろうけど)。

今まであまり意識してなかったけど、そういえばポアロには「ポワロ」と「ポアロ」二つの日本語表記がある。この本では「ポアロ」なので「ポアロ」にしておこう。ポアロ探偵には、私は本格推理小説の天才型名探偵に感じる得体の知れなさを感じるときもあったけど、彼は天才型名探偵であるとともに、元ベルギー警察の署長でもあったのだな、元警察関係者らしい強い倫理観の持ち主でもあったのだということを思い出させてくれる最後の事件であった。そう、ポアロ最後の事件であるということは、副題にもつけられているし、この本が刊行後すぐに日本語訳が出たときも大きく宣伝されていた。解説に週刊誌にも連載されたとあるが、確か “週刊文春” じゃなかったかな?それで私ももちろん本の存在を知ってたのだが、その頃は当時創元推理文庫で読める本しか読んでなかった(早川がミステリの文庫を始める直前)、それから約40年でポアロ物の代表長編を読んできて、『葬儀を終えて』、『象は忘れない』と後期、晩年の作品まで読んだので、もう読んでもいいかな、という心境で読んだ。

当初は作者没後の刊行を意図していたという「最後の事件」だが、書かれたのは 1940年代だという。だけど、この作中で描かれるポアロは老齢で身体的な不安を抱え、車椅子に乗り、ジョージに代わる従者に面倒を見られている。そのポアロが居を定めたのが、イギリスにおいて最初に住み、語り手であるヘイスティングス大尉と知り合ったスタイルズ荘であった、ということなのだ。そのかつての事件は『スタイルズの怪事件』としてまとめられている。クリスティのミステリー処女作である。私がクリスティを初めて読んだのは、あかね書房のジュニア向け世界のミステリ全集で、『ABC殺人事件』と『大空の死(雲をつかむ死)』が収録された本だった。その頃までは、もっぱらジュニア向けのホームズ、ルパン物を読んでいたのだが、ホームズ物が好きだった私には、ポアロと行動をともにするヘイスティングス大尉が語り手であるというスタイルになじめた。そこで次には初めて創元推理文庫で『ポワロの事件簿』2を、『ホームズの冒険』と一緒に買って、大人物の本を読み始めたのだった。小学6年の春だった。『ポワロの事件簿』が 2なのは、本屋の棚に 1が無かったというだけの理由で、それから創元推理文庫のクリスティ作品はかなり読んだが、その頃『スタイルズの怪事件』がちょうどカタログに無く(古い本にはリストに載ってたのだが、それが絶版になっていた)、新たに刊行された『スタイルズの怪事件』を読んだのは、1980年頃と、少し遅かった。

そのスタイルズ荘が舞台で、しかもポアロから呼び寄せられたヘイスティングスが語り手となる。『スタイルズの怪事件』、そしてそれ以前に私が読んでいる『ABC殺人事件』、そして『ポワロの事件簿』の二冊はヘイスティングスが語り手なのだが、その後、ポアロ物のうち評価の高そうな長編ということで私が読んだ本で、ヘイスティングスが語り手のものはなかったので、まさに懐かしい再会であった。しかし、ヘイスティングスの目に痛々しく映る高齢のポアロの描写と並んで、ヘイスティングスの娘(しかも長女ではない)が成人して働いており、亡くなった妻のことを嘆いているヘイスティングスの心境も、この最後の事件を迎えるに至った時の経過を伝える。

クリスティを手始めに大人向けのl本格推理小説を読み始めた私だったが、本格長編の小説が案外に読むのが苦痛だ、クリスティの小説がその中で例外的に面白く読めるのだ、というのはそのうち私も気づいた。クリスティの小説では殺人の謎の解決とともに、登場人物たちの人生ドラマも快く結末を迎えるのだ。この本では、そのドラマにヘイスティングスの娘ジュディスが加わり、彼女の動向に対してヘイスティングスが気を揉むことがいつもの長編と違った味を加えている。そしてポアロがヘイスティングスを呼び寄せた理由は、すでにかなり以前に解決した5つの、納得行く愛憎の動機による殺人事件が実は、その背後に暗躍する同一人物がいる、本当の真犯人がいるというのだ。その人物が今度はこのスタイルズ荘の住人となっている、その人物を探して新たな事件をくいとめなければならないという。そのためにヘイスティングスの力を借りたいというのだ。どういうことなのだろう、よく分らないけど、とにかくこのスタイルズ荘で新たな悲劇が起こりそうなのである。前半、なかなか目立った事件は起こらないけど、これらの要因によって、なんとも漠然と不安と悲劇を予兆させる雰囲気のうちに物語が進んで行くのが、なんともいえない。そしてついに事件は起こり始める……。

真相を知って連想したのは乱歩の名づけたところのプロバビリティの犯罪である。あれとはまたちょっと違うけど、犯罪にならない犯罪であって、犯罪をめぐる謎の解決という乱歩の定義によると、やっぱりこれも本格推理の領域だが、探偵される対象としては限界の領域というか極北というか、そういうものなのだ。しかし、確かにそこに「悪」はある。


ポアロ最後の事件という悲劇……といって案外、すんなりと私が受け入れられたのは、ポアロがすでにかなりの老齢として描かれているからというところがあると思う。そして、しかし、ポアロらしく、まったく几帳面にケリをつけ、後始末をしているのだった。本当に終盤近くで、ポアロの後をついでヘイスティングスが真相解決を試みるが、やはりいつものように失敗しているのが悲しくも微笑ましい。最後には、後で思えば、これはないだろうという人物までが疑惑の対象になるのだった。そして、他の人物に関していえば、ヘイスティングスの娘ジュディスには事件の終わりと同時に新たな旅立ちがあった。私は刊行された頃は、作者自ら「最後の事件」をわざわざ書かなくてもいいのにという思いだったが、今ではこういうのもありかな、という気持ちである。


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感想文:『会話』1,2 ナラボン

2015/05/31 『会話』1,2 ナラボン(講談社、少年マガジンKC 1 2013.11.15, 2 2015.1.16、電子書籍版 eBookJapanよりダウンロード )

“少年マガジン” の兄弟誌である月刊誌 “マガジンSPECIAL” に連載されたギャグマンガ「会話」が単行本 2巻にまとまっている。 2巻というと分量が少ないようだが、毎回多くないページ数の連載で、ちょうど高校 1年から卒業までの 3年間を描き切れているのだ。ヒロインは、ちょっぴりドジな女の子チョコとクールな女の子もなかの二人、最近の流行りのようにギャグマンガといっても美少女を前面に出した、そんなに笑えないマンガ、いやそもそも絵は可愛いのに読む気にもならないマンガだろうか? 「会話」というタイトルもユニークだが、いかにも女の子のたわいない会話のマンガだろうか……まず私にとってはギャグマンガに合った、適度にシンプルならがも可愛い女の子二人に魅かれて読んでみると…1,2話目ではまだわからないけど 3話(覚えてないけど、たぶん連載開始時は 1,2話同時掲載で 2回目が 3話……じゃなかった?)で、さっそくぶっとんだ展開になって、シリーズ全体を一言でいうと、痛快ほら話的展開が随所にある、真正面からギャグやっているマンガであった。もちろん、そういうの私は大好きである。他の雑誌はほとんど知らないけど、“マガジンSPECIAL” ってしっかりギャグマンガを載せてる雑誌だったのだが、このマンガもそうだったのだ。

『会話』 (1)   『会話』 (2)

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感想文:『ないしょのつぼみ』7 やぶうち優

2015/05/30 『ないしょのつぼみ』7 やぶうち優(小学館、ちゃおフラワーコミックス 2011.5.3)

最初に、直接この本には関係ないけど、最近年齢のせいか漫画本がなかなか読めなくなって、愛読している女性作家である赤石路代、やぶうち優の本も何冊も積んである。この『ないしょのつぼみ』7は、2年前に最初の方だけ読んで、止まっていた。

そもそもの作風に加えて、掲載雑誌が学年誌であるということも影響してか、淡々とした、この「ないしょのつぼみ」シリーズであるが、この 7は、今までに較べて一層薄いというかシンプルというか……。1年かけて解決されるお話の流れは、ヒロインつぼみが出会った男の子は幽霊?なのだが、魂が体を抜けたときに記憶が失われている。彼の過去を取り戻そうとする、つぼみ、そして交流してゆくうちに、だんだんと淡い想いを抱くようになっている。果たして記憶は取り戻せるのか、つぼみとの関係はどうなるのか……シリーズの今までだと、そのメインのストーリー展開とともに各回いろいろと事件が起こり、その事件のいくつかは「性教育まんが」としての内容に相応しいものであった。今回、「性教育まんが」的なところは、つぼみがはじめての生理を気にして母から整理用ショーツを与えられるところ、走ると乳首がこすれて気になり、ブラジャーを父母(父は産婦人科医である)から与えられるシーン、後はプールで友だちのスタイルを気にするところくらいか、あるにはあるがとても簡単に済ませている。女の子の友だちはいつも通り二人いるが、友達の出番も少ない(夏に起きるちょっとやばい事件もない)。両親の存在感が薄いこのシリーズであるが、いつにも増して薄い(ところで、最初、父は納骨に行ってなかったらしいのだが、仕事?)。

単行本に関しては「性教育まんが」的側面は巻末に収録されている第1期の番外編二編が肩代わりしてると言える。ところでひさびさにその第1期の絵を見ると、同じようでも約 6年経つと変わるものだねえ。

メインのストーリーに関してはクライマックスで十分盛り上がってスマートにエンディングを迎えるので、それは良い(そこで登場する幽霊?昴の母もやっぱり出番少ないねえ)。アストロツインという言葉を覚えておこう。

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